スラムの片隅から世界を、、【YUMEKAKE/JOHN's diary】

国際協力活動のなかでのマジメな話からゆる~い話まで/海外から日本から

「ロックダウンからの脱出(その後)」 ~外国における差別という、ある意味稀有な経験だった。そして、あらためて、差別というものについて、真摯に向き合わなければいけない。そう思った、、、 (#フィリピンセブ #医療崩壊 #人種差別 #ウイルスの次にやってくるもの #国際協力NGO HOPEハロハロオアシス)

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2020年3月。フィリピン・セブ島

世界中で猛威を奮い始めた新型コロナウィルスによって、突如ロックダウンされた島を、自分らは緊急脱出した。

いろいろあったけど、なんとか無事に帰国できた。

帰国後に、フィリピン関連の日本人コミュニティとかで、そのフィリピン脱出について報告したり、まだ取り残されてる人とかに経験談からのアドバイスした。

そしたら、語学留学してる生徒の親御さんから、直接、何人か相談されて、現地と連絡をとってあげたりして、このロックダウンに関して、日本に帰ってからもなんだかんだと現地との調整で、しばらくの間ずっと大変だったりもした。

ちなみに、その時は、4月14日まで、とアナウンスされていたフィリピンのロックダウンは、未だに解除されてない。

というか、渡航・入国制限については、皆も知ってるように、今やフィリピンだけでなく、全世界が新型コロナウィルスの影響を受け続けている。

フィリピンでも今(8/26現在)は状況も少し落ち着いてきているが、自分らが帰国した後も、どんどん状況は悪化し、例えば、18歳未満と60歳以上は一切の外出が禁止、その他の人も、パスを持ってる人が、家族に一人だけ、買い物とかで出掛けてもいい、みたいな感じになっていた。

また、セブの自分らがいた地域とかは、やはり貧困層・スラムでのクラスターを恐れてか、バランガイ(町村)どころか、Sitio(日本でいったら「丁目」みたいな)間の移動も自由にできなくなってた。15分も歩けば、検問ゲートがあって、もう立ち入り禁止みたいな。だから、自分らがスーパー行くときに渡った大通りも、渡れない状態だった。

日に日に感染状況は酷くなっていった。それは日本においても同様だった。入港制限が実施され、また緊急事態宣言も発令されたりした。
そして、これも世界共通の懸念事項として、ロックダウン等の感染対策と経済活動の停止による悪影響の問題がある。
ロックダウンには大きな意味もあると思う。早期のロックダウンにより効果をもたらした国も多くある。フィリピンもそのひとつだった。
日本は逆に感染防止対策が遅れ、感染を拡大させていった。
初めの頃は、フィリピンの方が、そんなゆるゆるの日本より感染状況は酷くなかった。

しかし、国民性や地域性もあるのだろう。また、フィリピンは明らかにロックダウンの程度(規制緩和をしていく過程)のコントロールのタイミングを間違えた。そして、いつしか、アジアでも突出した感染悪化状態に陥り、世界最長のロックダウンを実施せざるをえなくなる。

もちろんずっとそのままでは経済が、そして国がもうもたない。
感染状況というよりも見切り発車的ではあるが、だんだんと規制を緩和し、出口戦略を模索し始めている。
また、現状では、なんとなくピークは過ぎた感もある。

しかし既に経済は壊滅的だ。
一度すべてを失った人々の生活が元通りになるのには、まだ時間がかかるだろう。
もちろんコロナの恐怖が去ったわけではない。
というか、形を変えつつもロックダウンは続き、マスクどころかフェイスシールド着用の義務も生じている。

ちなみに、日本がフィリピンに対して入国制限(14日間の経過観察ってやつね)を始めたのが3月28日。
だから自分らの脱出は、ほんとギリギリのタイミングだった。

そして、その頃には、世界の状況がもう新型コロナウィルス一色だった。

その後、自粛がどうこうって緊張感もなくゆるゆるやってた日本も、緊急事態宣言へと状況が悪化していく。

日本がロックダウンもせずに、あんなゆるゆるな感じでなんとか乗り切ってこれたのは、致命的な医療崩壊が起きなかったことと、あと、やっぱり地理的・民族的な何かの要因があったんだと思う。あとは、実は、「運が良かっただけ!」だと思うし。

フィリピンでは、例えばマニラ首都圏では、徐々に感染者が増えていくに従って、あっという間に医療崩壊が起きた。
大きな病院が、コロナへの対応で限界になり、「一般の外来は受け入れられない」という公式のアナウンスを出した。

それも3月中旬のこと(自分らが現地にいる間)。

これも自分が「もうこれはヤバイな」と、緊急帰国を決断したひとつの大きな要因だった。

病院はそんな感じで状況がひっ迫していたし、また、もとより病院になんか行けない貧困層は、クラスターが発生して感染が判明すると、その地域が封鎖され、感染者は学校の体育館とかに隔離された。

コロナだかなんだかわからず、ふつうに家で死んでしまう人もたくさんいると思う。

そして、ロックダウンにより仕事を失い、ただでさえ生活が苦しかった貧困層は、感染と同時に、むしろ飢えの恐怖に包まれていく。

「このままじゃ、ウィルスに感染して死ぬか、飢えて死ぬか、どっちかだわ」

と。

悪化していく現地の状況を鑑みて、NGOでもスラムの飢餓への緊急支援を始める。

NGOの現地事務所付近のスラムや、山村での、食糧配給や炊き出しを行い、今もそれは続いている。

そんなふうな流れで今に至るのだが、

ロックダウン初期のセブで自分が痛切に感じたのは、やはり、

「本当に怖いのは人の心」

ということだ。

ウィルスの感染への恐怖は、その体よりも先に、人の心を蝕んでいた。

そう、人々の心は既に、恐怖というウィルスに感染し、疑心暗鬼に支配され、パニックモードに陥っていた。

今、この状況ではさすがにもう意識も変化しているだろうが、あの頃(コロナ感染拡大初期)は、外国人がどうとかそういう問題じゃないということもわからず、「コロナは外からやってくる」と、差別意識をあからさまに投げつけていた。

こんな情報がfacebookでシェアされてた。
「バランガイにイタリアとマニラからきた人がいるから気を付けろ、見かけたら通報しろ」
「あのホテルに韓国人の団体が泊まったから気を付けろ」
というような。

ちなみに今では、むしろ逆だ。
日本では、フィリピンから来る人は危険、と、日本では思われている。
日本とフィリピンは昔から関係性が深く、日本国籍在留資格を持ったフィリピン人がたくさんいる。
そんな人たちが帰国してきて、空港の検疫で陽性になった、とか、フィリピンパブでクラスターが、とか、なぜか妙にクローズアップして報道されたりする。
まあ、それだけ結びつきが深く、多くのフィリピン人が日本にいる、ということなのだろう。
今では、現状の良さ(?)と衛生・予防的な安心感から、「コロナ後に行きたい国ランク1位」だったりする日本と、未だロックダウンが続くフィリピンとでは、あの時の、「日本人はコロナだ。気をつけろ。」なんて、いったいなんだったのだろう、と思ってしまう。

アメリカとかでもそうだ。
2~3月のアジア人差別はいったいなんだったのだろう?な惨状だ。

まあいいや。いずれにせよ、感染抑止に対し、やることはこれからもかわらないし。

ただ、こんな状況だから仕方ないにしろ、やはり差別はよくない。

今回、そんな状況の中、それでも受け入れてくれた人々と、差別を表してきた人々とに、やはり心の中で線引きはしてしまう。

もちろん日本人だって差別をしてしまう時がある。
例えば、今回のコロナでも、自粛警察や、医療従事者の子どもや宅配業者への差別対応が問題になったし、イスラム国がテロや人質事件を繰り返してた時のムスリムへの差別意識とかもあった。

日本に帰ってきてまず思ったのは、そのあまりの緊張感のなさ。
でも、こんな状況下でもパニックにならない日本人ってある意味すごいかも、と思ったりもした。
今回のコロナウィルスで、たとえ(コロナの発生源を思われる)中国人とかに対する偏見や差別があっても、それを表に表すことに社会的に恥を感じる、そういう道徳心はすばらしいな、とあらためて思った。

フィリピンで人種差別を受け、そして監視・軟禁された日々。
たとえ笑い話に消化はできても、でも、あのイラつきや辛さはもう忘れられないだろう。

まあ、結局、その地域の人たちにも食糧支援はしてるけど、この心の傷のささくれはもう消えはしないだろう。

でも。

そんな差別・軟禁された状態の自分らのところに、子どもたちがいつも家に来てくれたり、一緒に出掛けてくれたりした。

NGOの支援で学校に通う、サポーターチャイルドの子たちだ。

一見、何のくったくもなく、いつものように自分ら日本人を接してたけど、実は、あの子たちにも葛藤があった。

ショッピングモールに出かける話をしてる時に、何気に聞いた。

「友達も連れてきていいよ」

そしたら、こう答えた。

「友達は来ないと思う。親が許さないから」

そう、あの子たちも、周りの白い目を感じながら、勇気をもってうちらと一緒にいてくれたのだった。

現地スタッフも、近所からの差別の目や、「日本人と接してるんだからあの人もきっともうコロナ」という差別的扱いに耐え、戦いながら、自分らと一緒にいてくれた。

昨日までふつうに笑顔で接してた隣人が、避けて通る。

そんな状況の中、それでも毎日自分らの世話をしてくれ、笑顔で過ごしてくれた。

本当に感謝してるし、これからもその関係を大切にしたい。

例えば、学生ボランティアのプログラムにあったホームステイとかも、そんな状況の中でも、サポートチャイルドの家で受け入れてもらえることになったんだけど、結局、近所の非難にあって、ダメになったりもした。

毎日のように、閉じ込められ不自由な生活を強いられた自分らに会いに来て、共に過ごしてくれた子どもたち。

「日本人と会ってる」ということが、あの子たちにどんな風評被害を与えたかもわからないし、実はとてもプレッシャーになっていたと思う。勇気と覚悟を持って、会いに来てくれていたと。

感染が怖いというよりも、周りの目があって。

もしかしたら、日本人を関わることで、本人も同じように差別されてしまうかもしれないのに。

だから、あの子たちには、本当に、とてもとても感謝してる。

。。。

しなくてよかった経験だし、いい思い出でもないけど、でも、ただ日本に住んでいたら出来ない体験だったことは確かだ。

外国における人種差別、監視、軟禁という経験をして、あらためて思った。

「差別」というものに対してもっと真摯に向き合おう、と。

「差別は遠いものではない。あなたの近くにも必ずある。」

自分には関係ない、なんてことは決して無い。

目には入ってきてるのに、知らないフリをしているだけなんだ。

差別を知らないのではない。

差別をされる人の気持ちを知らないだけだ。

もちろん自分自身も含めて。

だから、今後も、常に、ずっと意識し、そして、どうあるべきかを考えよう。

そう思う。。


🌈《ロックダウンからの脱出 PartⅠ~Ⅵ &「その後」》

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JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
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自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

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