スラムの片隅から世界を、、【YUMEKAKE/JOHN's diary】

国際協力活動のなかでのマジメな話からゆる~い話まで/海外から日本から

「少しずつ、、、」 ~新型コロナウィルスによるロックダウンが続くフィリピン。でも少しずつ状況は変わってる。支援活動の様子と共に、少し振り返ってみた、、、(#国際協力NGO #海外ボランティア #緊急食糧支援)

f:id:yumekake-john-ngohope:20200830214818j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200830214956j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200830215018j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200830214912j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200830214839j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200830214931j:plain

少しずつ
少しずつですが
前に進もうとしています。

先週はまた、定期的に行っている、山奥のスラムで炊き出し実施しました。

そして、今回は、今までとまた少し違う雰囲気だったような、そんな気がします。

前回の同じ場所での食糧配給の時は、フェイスシールドも必須でしたが、今回の炊き出しは、少し緩和されたロックダウンに伴い、集まった子どもたちやスタッフも、どことなく穏やかな空気に包まれています。

ただ、実際は、まだ明確に何かが進んだわけではありません。
政府のアナウンスに希望は見出しつつも、ウィルスの感染状況は未だ落ち着かず、様々な規制も行われ、人々の生活は未だ困難な状態に陥っています。

そう、今も、

新型コロナウィルスによるロックダウンで、
仕事がなくなった状態の、スラムの貧困層の人々は飢えに苦しんでいます。

でも、もう、国そのものが、この経済活動の停止に耐えられなくなっています。
そして、とりあえず今月くらいから、政府の方針も、経済活動の再開を考えた、また違う形での規制、例えばフェイスシールドの着用義務等を、感染がおさまっていない地域の人々に強いたりしながら試行錯誤しています。

新型コロナウィルスにより世界最長のロックダウンが続くフィリピン、、やっとこの国も出口戦略を模索し始めたのかもしれません。

ただ、実は6月にも同様の流れがあったのですが、その時は、タイミングが悪かったのか、ウィルスの感染の拡大に拍車をかける結果になってしまいました。

そしてまた厳しいロックダウンへと戻り、人々は精神的にもより一層のダメージを受け、また、もうどうしようもなくその生活は困窮していきました。

そんな苦い経験から、人々は未だ深い不安に包まれてもいます。

3月中旬から始まったロックダウン。

政府の対策や人々の予防や注意も効果を奏さず、感染状況はどんどん悪くなり、ロックダウンによりその生活は困窮し、人々は希望を失っていきました。

「もう、ウィルスに感染して死ぬか、このまま飢えて死ぬか、どちらかしかないわ」

「これから私たちはどうしたらいいの?」

スラムの人々の切実な嘆きが、自分のもとにも多く届きました。そしてNGOでは、緊急の食糧支援に動き出しました。

今、必要な支援をするために。

本当は、もっと先のこと、例えば子どもたちの教育のことなどへの投資をするべきだとは思うのですが、
というか、普段のNGOの活動では教育や環境・医療、また就業等へのアプローチを行っているのですが、
今は、まず、目の前にある命を救おうと決めたのです。

そう、本当は、未来の生活改善、自立支援へと具体的に繋がっていかないような、いわゆる「その場限り」の支援はしたくないし、今までも極力しないようにしてきました。

そして、確かにこのような食糧支援は、その場限りの、先の見えない支援かもしれません。

ただ、今回の新型コロナウィルスの場合はもう、災害への復興支援を同じです。

今、目の前にある困難を乗り切らなければ、先へ進めません。

今、生き延びなければ、その命を救わなければ、何も明日へと繋がっていきません。

そう思ったのです。

ロックダウンの最中で、多くの規制や、また行動制限もあり、なかなか思うように支援活動の準備は進みませんでしたが、今までずっと地域に根差した草の根の活動をしてきたおかげで、教会や役場の協力や、現地ボランティアががんばって動いてくれて、なんとか支援活動を始め、そして、続けることができています。

NGOの事務所の周りのスラムや、山奥のスラムで、食糧の配給や、炊き出しを定期的に行っています。

現地スタッフによる情報収集を常に行い、できる限りではありますが、必要な支援を適切な時期に行い、少なくとも、自分らの支援地域では、直接的な意味での「飢え死に」は発生していません。そして、できるだけ、少しでも、NGOの支援範囲を拡げ、なるべく多くの貧困層に、支援の手が届くよう、努力しています。

ただ、栄養不良による抵抗力の低下等で、病気が重症化しやすくなっていたり、また、精神的なストレスや不安も大きな原因なのでしょう、、しょうじき言うと、例年より、あきらかに地域の人々の死亡例の報告が多いです。

残念ながらそれもまた現実です。

現実から逃げないで、すべてを受け入れ、

それでも、

今、できることを、今できる形で、精一杯やっていくしかありません。

。。。

先週は、

この、山奥の小さな村のフィエスタ(お祭り)でした。

もちろん例年と同じようにはできません。

それでも、人々は、家族や、近所の仲間で集い、ささやかなパーティーをし、祈りを捧げました。

いつものダンスコンテストは、今年はTiktokコンテストでした。

参加者がTiktokを撮り、facebookでの投票と審査員が審査します。

確かにあまり盛り上がるものではないかもしれませんが、それでも、みんながいろいろ考えて、できるかぎり楽しもうと、それぞれの形で、地域の大切なお祭りに参加しました。

そして、フィエスタの最終日に、NGOの支援による、子どもたちへの炊き出しを行いました。

以前の炊き出しの様子に比べると、なんとなくですが、その場の雰囲気や、皆の表情もやわらかくなっているような気がします。

少しずつだけど、希望が見えてきた気がする、、、

人々の表情にもその喜びが現われているのでしょう。

もちろん未だ続く困難な状況への不安とともに。

そう、

世界最長のロックダウンは、その形を変えてはいっているものの、終わったわけではありません。

また、失った仕事がすぐに元通りに戻るわけでもありません。

公立の学校の開始は、8月から10月に延期されました。
あくまでも現時点での予定ですが、、。

街に出るには、マスクだけでなく、フェイスシールドも必要です。

日本で考えられますか?

バスに乗る時や、ショッピングモールで、みんながフェイスシールドをしている様子が。

ところどころに軍や警察の検問がある日常が。

でも、それが、今のフィリピンの現実です。

でも、、、

少しずつ
少しずつですが
前に進もうとしています。

この状況が、
このままなんとか良くなっていくことを信じて、祈って、
人々は困難が続く日々を、
それでも強く生きていこうとしています。

自分らはそんな人々の命を
たとえ小さな力でも
ほんの少しでも支えるために
これからも、
今できるせいいっぱいの気持ちを届けていきます。

現地の、スラムの人々の、その暮らしに、心に寄り添い、手を繋ぎながら、

共に歩んでいきます。



初めは、こんなふうになるなんて、想像もしてなかったよね、、

もう半年以上、

自由に外に出かけることもできなければ、友だちと集まって楽しむこともできない。

学校も休みで、そして、仕事もない。

ステイホームだとか、ソーシャルディスタンスだとか言ってるうちに、

いつのまにか人と人との距離が遠くなった気がする。

でも、きっと大丈夫。

心の距離は変わってないよ。

だから、もうしばらく、がまんしなきゃね。

大丈夫だよ。

きっとまた前のように、

みんなで一緒に集まって、遊んだり、おしゃべりしたり、食事したり、出かけたりできるから。

楽しく、笑いあえるから。

大丈夫。

いつも見守ってるよ。

いつも、そばにいるよ、、、


yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ”  

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

youtu.be

 

「辞意を表明した安倍首相への、極々私的メッセージ」 ~もう今の日本では誰が首相になったって変わらない、ってみんな思ってるけど、なんか少し期待してる自分もいる。この社会の閉塞感に少しでも楔が撃ち込まれることを、、 (#菅総理大臣 #アベノミクス #格差社会 #GDP第三位)

 f:id:yumekake-john-ngohope:20200828205453j:plain

突然だった。

健康上の理由だし、もう充分やってきたし、がんばってたと思うし(彼のやりたいことをね!)途中で投げ出したなんて思わないし、そういう意味では何も非難しない。

まあ、確かに、「お疲れさま」には違いない。

でも。

どうして、「お疲れさま。ありがとう。」みたいなムードになってるの?😳

病気は心配だし、ちゃんと治してゆっくりしてほしいし、安倍さん自体も人間的に嫌いってわけじゃないし、能力もある人だと思うけど、

この人の政治は大っ嫌いだった。

日銀と組んでのむりやりな為替操作まがいのアベノミクスで作ったいびつな経済は、大企業やお金持ちだけが得をする格差社会を生み、調子に乗って逆に行き詰った金融政策は、GDP世界三位の国が未だにマイナス金利なんつーわけわからんことになってる。

アメリカべったりの外交政策は、結局自国の対外的評価を下げて、グローバル化を妨げてるし、安保だかなんだか知らんけど、かえって国際的に危険な位置に日本を追い込んでる感もある。

勝手な偏った思想で、平和ボケな国民が能天気なのをいいことに、数の政治でシレっと決めた隠密政治と監視社会の合法化が、日本の社会をより一層気持ち悪いものにしてる。

でもね。

何も気付いてない国民ばっかじゃないよ?

だから優秀な頭脳も技術も海外に流出していく。

「今度の総理は大変」

テレビでもネットでも、評論家やコメンテーターがみんな言ってるけど、たぶんそれってコロナのことだよね?

でも、それこそ誰が総理をやっても同じだよ。どこの国の代表もみんな大変。

それよりもね。

この狂った政治と経済を、もう少し自然なものに戻すのが大変なんだよ。

アメリカとの関係の仕切り直しや中国との付き合い方だって、今までのようにはいかないしょ?

まあね、拉致問題北方領土もうまくいかなかったけど、それこそ安倍さんのせいじゃないから、仕方ないよ。

日本として、継続してがんばっていくしかない。

でも、この国を、こんなにもいびつな経済や外交の形にしてしまったのは、やっぱり安倍政権のせいだと思うよ。

申し訳ないけど、しょうじき、第二次安倍政権は、少なくとも自分にとっては最悪だった。

もう手遅れだけど、でもやっと終わりが来て、ほっとしてる。

あ。

このぐだぐだ書いてるのは、あくまでも自分個人の勝手な見解と、もっとザクっと言ってしまえばただの好みの問題かもなんで、あんましここで深く語るつもりはないし、、

んで、結局誰が総理になっても同じじゃん?ってこともわかる。

でもって、誰がやってもやっぱ批判や文句はでる。

だからこそ健全な国家とも言えるけど🙂

まあ、

とりあえず、、

「お疲れさま。でももっと早くやめてもらってもよかったけどー。」

かな。そして、

じゃあね。ゆっくり休んでね、安倍さん。お大事に。

そうそう。もう奥さんも、あーだこーだ言われないし、仲良しの手越くんもフリーだから、一緒に思いっきりはっちゃけられるよ。手越くんのYoutubuにでも出たらいーじゃん?

気楽に好きなことやろーよ😁

でさ。もう自宅で犬を抱いてくつろいでコーヒー飲んでても、何もごちゃごちゃ言われないよ。てゆーかもし言われても、気にする必要なんかないよ。
よかったね😊

でも、かわいそうだから、オリンピックにはゲストで呼んであげてもいいかな?オリンピック誘致に実はいちばんがんばった猪瀬さんと一緒に。」

ではでは、最後にもう一度。

今までお疲れさまでした。

次が決まるまで臨時とか立てないで自分が続けるみたいだけど、無理しないでね。

だって、ぜったいにこんな時期の首相の座なんて、体的にも精神的にも病気に良いわけないし。

ほんとにほんとに、

マジで体調に気を付けて。

お大事に。

てゆーか、今日の辞意発表、突然過ぎて、マジで心配してる。

今はもう、できたらゆっくり、自愛してほしい。

あ。あと、誤解のないように。

政治家としてのあなたは嫌いだったけど、でも初めに言ったみたく、人として嫌いなキャラってわけじゃないよ。

友だちになってもべつにいいよん😁

 

yumekake.comyumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ” 

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「ロックダウンからの脱出(その後)」 ~外国における差別という、ある意味稀有な経験だった。そして、あらためて、差別というものについて、真摯に向き合わなければいけない。そう思った、、、 (#フィリピンセブ #医療崩壊 #人種差別 #ウイルスの次にやってくるもの #国際協力NGO HOPEハロハロオアシス)

f:id:yumekake-john-ngohope:20200824162017j:plain

f:id:yumekake-john-ngohope:20200824162104j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200824162042j:plain

2020年3月。フィリピン・セブ島

世界中で猛威を奮い始めた新型コロナウィルスによって、突如ロックダウンされた島を、自分らは緊急脱出した。

いろいろあったけど、なんとか無事に帰国できた。

帰国後に、フィリピン関連の日本人コミュニティとかで、そのフィリピン脱出について報告したり、まだ取り残されてる人とかに経験談からのアドバイスした。

そしたら、語学留学してる生徒の親御さんから、直接、何人か相談されて、現地と連絡をとってあげたりして、このロックダウンに関して、日本に帰ってからもなんだかんだと現地との調整で、しばらくの間ずっと大変だったりもした。

ちなみに、その時は、4月14日まで、とアナウンスされていたフィリピンのロックダウンは、未だに解除されてない。

というか、渡航・入国制限については、皆も知ってるように、今やフィリピンだけでなく、全世界が新型コロナウィルスの影響を受け続けている。

フィリピンでも今(8/26現在)は状況も少し落ち着いてきているが、自分らが帰国した後も、どんどん状況は悪化し、例えば、18歳未満と60歳以上は一切の外出が禁止、その他の人も、パスを持ってる人が、家族に一人だけ、買い物とかで出掛けてもいい、みたいな感じになっていた。

また、セブの自分らがいた地域とかは、やはり貧困層・スラムでのクラスターを恐れてか、バランガイ(町村)どころか、Sitio(日本でいったら「丁目」みたいな)間の移動も自由にできなくなってた。15分も歩けば、検問ゲートがあって、もう立ち入り禁止みたいな。だから、自分らがスーパー行くときに渡った大通りも、渡れない状態だった。

日に日に感染状況は酷くなっていった。それは日本においても同様だった。入港制限が実施され、また緊急事態宣言も発令されたりした。
そして、これも世界共通の懸念事項として、ロックダウン等の感染対策と経済活動の停止による悪影響の問題がある。
ロックダウンには大きな意味もあると思う。早期のロックダウンにより効果をもたらした国も多くある。フィリピンもそのひとつだった。
日本は逆に感染防止対策が遅れ、感染を拡大させていった。
初めの頃は、フィリピンの方が、そんなゆるゆるの日本より感染状況は酷くなかった。

しかし、国民性や地域性もあるのだろう。また、フィリピンは明らかにロックダウンの程度(規制緩和をしていく過程)のコントロールのタイミングを間違えた。そして、いつしか、アジアでも突出した感染悪化状態に陥り、世界最長のロックダウンを実施せざるをえなくなる。

もちろんずっとそのままでは経済が、そして国がもうもたない。
感染状況というよりも見切り発車的ではあるが、だんだんと規制を緩和し、出口戦略を模索し始めている。
また、現状では、なんとなくピークは過ぎた感もある。

しかし既に経済は壊滅的だ。
一度すべてを失った人々の生活が元通りになるのには、まだ時間がかかるだろう。
もちろんコロナの恐怖が去ったわけではない。
というか、形を変えつつもロックダウンは続き、マスクどころかフェイスシールド着用の義務も生じている。

ちなみに、日本がフィリピンに対して入国制限(14日間の経過観察ってやつね)を始めたのが3月28日。
だから自分らの脱出は、ほんとギリギリのタイミングだった。

そして、その頃には、世界の状況がもう新型コロナウィルス一色だった。

その後、自粛がどうこうって緊張感もなくゆるゆるやってた日本も、緊急事態宣言へと状況が悪化していく。

日本がロックダウンもせずに、あんなゆるゆるな感じでなんとか乗り切ってこれたのは、致命的な医療崩壊が起きなかったことと、あと、やっぱり地理的・民族的な何かの要因があったんだと思う。あとは、実は、「運が良かっただけ!」だと思うし。

フィリピンでは、例えばマニラ首都圏では、徐々に感染者が増えていくに従って、あっという間に医療崩壊が起きた。
大きな病院が、コロナへの対応で限界になり、「一般の外来は受け入れられない」という公式のアナウンスを出した。

それも3月中旬のこと(自分らが現地にいる間)。

これも自分が「もうこれはヤバイな」と、緊急帰国を決断したひとつの大きな要因だった。

病院はそんな感じで状況がひっ迫していたし、また、もとより病院になんか行けない貧困層は、クラスターが発生して感染が判明すると、その地域が封鎖され、感染者は学校の体育館とかに隔離された。

コロナだかなんだかわからず、ふつうに家で死んでしまう人もたくさんいると思う。

そして、ロックダウンにより仕事を失い、ただでさえ生活が苦しかった貧困層は、感染と同時に、むしろ飢えの恐怖に包まれていく。

「このままじゃ、ウィルスに感染して死ぬか、飢えて死ぬか、どっちかだわ」

と。

悪化していく現地の状況を鑑みて、NGOでもスラムの飢餓への緊急支援を始める。

NGOの現地事務所付近のスラムや、山村での、食糧配給や炊き出しを行い、今もそれは続いている。

そんなふうな流れで今に至るのだが、

ロックダウン初期のセブで自分が痛切に感じたのは、やはり、

「本当に怖いのは人の心」

ということだ。

ウィルスの感染への恐怖は、その体よりも先に、人の心を蝕んでいた。

そう、人々の心は既に、恐怖というウィルスに感染し、疑心暗鬼に支配され、パニックモードに陥っていた。

今、この状況ではさすがにもう意識も変化しているだろうが、あの頃(コロナ感染拡大初期)は、外国人がどうとかそういう問題じゃないということもわからず、「コロナは外からやってくる」と、差別意識をあからさまに投げつけていた。

こんな情報がfacebookでシェアされてた。
「バランガイにイタリアとマニラからきた人がいるから気を付けろ、見かけたら通報しろ」
「あのホテルに韓国人の団体が泊まったから気を付けろ」
というような。

ちなみに今では、むしろ逆だ。
日本では、フィリピンから来る人は危険、と、日本では思われている。
日本とフィリピンは昔から関係性が深く、日本国籍在留資格を持ったフィリピン人がたくさんいる。
そんな人たちが帰国してきて、空港の検疫で陽性になった、とか、フィリピンパブでクラスターが、とか、なぜか妙にクローズアップして報道されたりする。
まあ、それだけ結びつきが深く、多くのフィリピン人が日本にいる、ということなのだろう。
今では、現状の良さ(?)と衛生・予防的な安心感から、「コロナ後に行きたい国ランク1位」だったりする日本と、未だロックダウンが続くフィリピンとでは、あの時の、「日本人はコロナだ。気をつけろ。」なんて、いったいなんだったのだろう、と思ってしまう。

アメリカとかでもそうだ。
2~3月のアジア人差別はいったいなんだったのだろう?な惨状だ。

まあいいや。いずれにせよ、感染抑止に対し、やることはこれからもかわらないし。

ただ、こんな状況だから仕方ないにしろ、やはり差別はよくない。

今回、そんな状況の中、それでも受け入れてくれた人々と、差別を表してきた人々とに、やはり心の中で線引きはしてしまう。

もちろん日本人だって差別をしてしまう時がある。
例えば、今回のコロナでも、自粛警察や、医療従事者の子どもや宅配業者への差別対応が問題になったし、イスラム国がテロや人質事件を繰り返してた時のムスリムへの差別意識とかもあった。

日本に帰ってきてまず思ったのは、そのあまりの緊張感のなさ。
でも、こんな状況下でもパニックにならない日本人ってある意味すごいかも、と思ったりもした。
今回のコロナウィルスで、たとえ(コロナの発生源を思われる)中国人とかに対する偏見や差別があっても、それを表に表すことに社会的に恥を感じる、そういう道徳心はすばらしいな、とあらためて思った。

フィリピンで人種差別を受け、そして監視・軟禁された日々。
たとえ笑い話に消化はできても、でも、あのイラつきや辛さはもう忘れられないだろう。

まあ、結局、その地域の人たちにも食糧支援はしてるけど、この心の傷のささくれはもう消えはしないだろう。

でも。

そんな差別・軟禁された状態の自分らのところに、子どもたちがいつも家に来てくれたり、一緒に出掛けてくれたりした。

NGOの支援で学校に通う、サポーターチャイルドの子たちだ。

一見、何のくったくもなく、いつものように自分ら日本人を接してたけど、実は、あの子たちにも葛藤があった。

ショッピングモールに出かける話をしてる時に、何気に聞いた。

「友達も連れてきていいよ」

そしたら、こう答えた。

「友達は来ないと思う。親が許さないから」

そう、あの子たちも、周りの白い目を感じながら、勇気をもってうちらと一緒にいてくれたのだった。

現地スタッフも、近所からの差別の目や、「日本人と接してるんだからあの人もきっともうコロナ」という差別的扱いに耐え、戦いながら、自分らと一緒にいてくれた。

昨日までふつうに笑顔で接してた隣人が、避けて通る。

そんな状況の中、それでも毎日自分らの世話をしてくれ、笑顔で過ごしてくれた。

本当に感謝してるし、これからもその関係を大切にしたい。

例えば、学生ボランティアのプログラムにあったホームステイとかも、そんな状況の中でも、サポートチャイルドの家で受け入れてもらえることになったんだけど、結局、近所の非難にあって、ダメになったりもした。

毎日のように、閉じ込められ不自由な生活を強いられた自分らに会いに来て、共に過ごしてくれた子どもたち。

「日本人と会ってる」ということが、あの子たちにどんな風評被害を与えたかもわからないし、実はとてもプレッシャーになっていたと思う。勇気と覚悟を持って、会いに来てくれていたと。

感染が怖いというよりも、周りの目があって。

もしかしたら、日本人を関わることで、本人も同じように差別されてしまうかもしれないのに。

だから、あの子たちには、本当に、とてもとても感謝してる。

。。。

しなくてよかった経験だし、いい思い出でもないけど、でも、ただ日本に住んでいたら出来ない体験だったことは確かだ。

外国における人種差別、監視、軟禁という経験をして、あらためて思った。

「差別」というものに対してもっと真摯に向き合おう、と。

「差別は遠いものではない。あなたの近くにも必ずある。」

自分には関係ない、なんてことは決して無い。

目には入ってきてるのに、知らないフリをしているだけなんだ。

差別を知らないのではない。

差別をされる人の気持ちを知らないだけだ。

もちろん自分自身も含めて。

だから、今後も、常に、ずっと意識し、そして、どうあるべきかを考えよう。

そう思う。。


🌈《ロックダウンからの脱出 PartⅠ~Ⅵ &「その後」》

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ”  

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「ロックダウンからの脱出(Ⅵ)」 ~フィリピン・セブ島ー差別、監視、軟禁、、3・21、あの日、新型コロナウィルスにより突如封鎖された島を、ボクらは脱出した、、 (#フィリピンセブ #空港検疫 #入国制限 #国際協力NGO)

f:id:yumekake-john-ngohope:20200824205236j:plain

f:id:yumekake-john-ngohope:20200824205304j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200824205334j:plain

ロックダウンで封鎖されたフィリピン・セブ島

その中、やっと手に入れた13人分、学生ボランティアと自分の帰国のチケット。

宿なしの危機もクリアして、ぜんぜんやってこない出発日の朝のタクシーにドキドキして、

それでもなんとか空港にたどり着いた。

みんなで急いでカウンターへ。

ふと見ると、空港の外には、今朝もたくさんの、帰れなくなった人たちが、列を成している。

「大変だな、、なんとかなるのかな、、

これからどうするんだろう、、

この国はこれからどうなっていくんだろう、、、」

そう思いつつ、空港内に入り、チェックイン・チケット発券手続きをす、、、



るはずだったのが、、、



なかなか手続きが終わらない。

えっと、、もうフライトの時間が来ちゃうんだけど、、、😳

というか、搭乗時間過ぎてんだけど、、、😱

な、状態のなか、

カウンターのスタッフが言う。

「二人、この便には乗れません。午後にもうひとつ臨時便があるので、そちらに移動してもらえませんか?」



はあ?😶



オーバーブッキングだ。

昨日の手続きはいったいなんだったのだろう?

けっこうゴネてはみたが、どうにもなりそうもないので、みんなで相談する。

自分はいいとして(というか当然として)、

でも、ここまで一緒に大変な状況を乗り越えてきた皆の中から、あとひとり、ここまできて、ここで別れなければならない。

ただもう時間がない。

決めなきゃ。

ひとりの子が、わたし大丈夫ですよ、と言ってくれる。

ありがとう。

突然の別れに泣き出すメンバー達もいる。

そして、「じゃあ仕方ないけどそうしよう」と、手続きを進めようとするが、さっきからどっかに(ゴネたので相談に?)行ったまま不在のスタッフが帰ってこない。

ふむむむ、、



で、

やっと帰ってくる。

この二人が別の便で、、

と告げようとすると、、、

「OK 全員乗れるよ」

と!😲



ん?



さっきの涙はどーしてくれる?😅



まあいいや。

で、どうなったかというと、二人はビジネスシートだと。

は?

空いてんのかい!😳

(結局、その二人以外のビジネスシートは空いていた。てゆーか、こういう緊急事態なんだから、初めっから乗せれるだけ乗せよーよ???🙄)

さて。

そんなこんなで搭乗手続きを終え、、、

たら、別のスタッフがやってきて、

「走れ!」

と😱

マジで時間がない。

放送で名前も呼んでる。

てゆーかうちらのせいじゃないぞ?😨

そして、ほとんど出発時間と同時ってくらいに、なんとか機内に乗り込む。

これでやっとなんとか帰れる。

席に座って「ふぅ」としてると、

表から入ってきた他のスタッフに呼ばれる。

「スーツケースにパワーバンク(充電池)が入ってないか?」

えっと、

パワーバンクは預ける荷物じゃなくて、手荷物にしなきゃいかないのは知ってるよ。

というか、今、持ってるよ?

ん?😳

でも、どうしても自分の荷物だというので、一緒に荷物室へ行く。

もう出発時間は過ぎてるので、もちろん走って。

で、荷物を見せられるけど、自分のスーツケースじゃない。

とりあえず戻る。

そして一端戻ったら、やっぱり、とまた呼ばれる。

また走る。

何度確認しても同じだ。

それは自分のスーツケースなんかじゃない。

そんなこんなしてる間に、機内でも確認していたようだ。

自分らの他のメンバーが、「それってもしかしたら」と、気付く。

メンバーのひとりのスーツケースの特徴と一緒だった。

で、、、

ようするに係員のタグの付け間違えだ。

荷物室まで二往復の自分に、「お疲れさま」と冷たい水をくれるが、、、

勘弁してくれ😅😅😅

そして、だいぶ時間を遅れて、飛行機が飛び立つ。

いろいろ疲れ果ててたし、寝てる間に日本に到着。

いや~ほんと大変だった😓

でもまあ、なんとか無事にみんな日本に帰り着けてよかった。

無駄なお金はかかったけど、嫌な思いもしたけど、めっちゃ不安だったけど、

ある意味、いい経験とも言えるかもしれない。

帰国後、メンバーのひとりが言っていた。

「もうしばらく海外はいいや」

、、、

なにはともあれ、日本は平和だ。

この時はまだ空港でも、特別なチェックも検査もなく、ふつうに入国できた。

フィリピンのあの緊張感が嘘のようだ。

これでとりあえずひと安心、、

なんだけど、

最後にもうひとつ😅



メンバーのひとりの荷物が届かない😳



いやいや最後までトラブル続きだ😅

おそらく積み忘れだろう。

午後の臨時便に乗せられてくるんじゃないかと。



というわけで、一緒に待つ。

、、、

ちゃんと(と言っていいのか?)次の便に乗ってた。

まあ、こんなわやくちゃな感じだし、トラブルも多発してるのだろう。

対応してくれたスタッフも「最近よくあるの」って言っていた。



そして荷物を無事受け取って、

この混乱続きの旅もやっと終わる。

バスと電車で家路に着く。

まだ休業要請も出されていない日本は、まったくの通常通り。

コロナに対する意識の薄さはあいかわらずだったし、人々の間にも街にも信じられないくらい緊張感がなかった。



しかし、世界は急激にウィルスに支配されていく。



2020年3月21日。

あの日、新型コロナウィルスによるロックダウンで、突如封鎖されたフィリピン・セブ島を、自分らは脱出した。

そして、

日本が、フィリピンその他の国に対して、入国制限(PCR検査と14日間の外出自粛・経過観察)の措置を開始したのが、その一週間後3/28。

ギリギリのタイミングだった。

あの時、あの判断、緊急帰国を決断して本当によかった。

あの時点では、フィリピンのロックダウンの期限は一ヵ月(4月14日まで)となっていた。

だから甘く見ていて、結局ずっと帰国困難になった人も多くいるだろう。

事実、日本人観光客や短期語学留学生が多く滞在していたセブは、その後まもなく、大量の帰国困難者、いわゆる帰国難民の発生で、日本でも大きなニュースとなる。

現状は、未だにロックダウンが続いている。

もちろんフィリピンどころか、世界中がロックダウンの波にのまれていく。

新型コロナウィルス感染の猛威は信じられないほどのスピードで拡がり、世界を恐怖に陥れつつあった。



そして、

日本でも、時を経ずして、

緊急事態宣言へと事態は悪化していく、、、



《「ロックダウンからの脱出(Ⅵ)了。次回「同(その後)」へと続く。》


🌈ロックダウンからの脱出 PartⅠ~Ⅵ &「その後」

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ” 

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「慣れって恐ろしい。いや、素晴らしい?😅」 ~一年中暑いフィリピンであたらめて感じる日本の異常な暑さと、不思議な英語のお話し😁 (#旅をしながら覚えた英語 #rの発音 #フィリピン人は寒がり #フィリピンのユニクロ)

今週のお題「暑すぎる」

f:id:yumekake-john-ngohope:20200822195530j:plain

tengs koya john waer aryo

さてこれはどういう意味でしょう?

とりあえず現地語と英語が混ざってますが、現地語を除いても、なかなか訳すのにテクニックがいるのです😅

※※ ※※ ※※ ※※

ところで、日本は今、「夏、真っ盛り」ですが、こんな狂ったような暑さや、時にゲリラ豪雨(スコールだよね!)もあるような気候でも、温帯湿潤気候(だっけ?北海道以外は)とかで、熱帯性の気候ではないようです。まあ四季があるから!

そして、自分が国際協力NGOで関わっている、現地事務所のあるフィリピンは熱帯雨林気候。とりあえず一年中、暑いです。

現地の人は、その暑さに体が慣れちゃってるせいか、めっちゃ寒がりなので、雨が降って、気温が27~8度とかになったりすると、寒い寒い言って、上着を着だしたりします。

自分的には、今日は少し過ごしやすくていいね!くらいの感じなんですが😅

そんな人たちなので、例えば現地のショッピングモールにあるユニクロには、日本にあるダウンジャケットが売ってたりします。

やっぱり自分的には「ありえない」のですが、きっと需要があるから、置いてるんじゃないかと😅

で、そんないつ行っても暑いフィリピン。自分も、フィリピンに関係が深くなり、しょっちゅう行きだして、しばらくは、「マジで暑いよなー」ってヒーヒー言ってました。

ところが、、、

ここ数年の日本の異常な暑さ、、、

自分は日本では、埼玉の上の方(久喜市)に住んでいるのですが、埼玉の上の方というと、暑さで有名な熊谷とかあります。方向が違う(宇都宮線高崎線!うちは栃木に近いのですが熊谷は群馬に近いです。)ので、気候も少し違うとは思いますが、やっぱりうちも暑いです。37~8度とか、ほとんど40度くらいになるのはふつうです。おまけに湿気ももちろん凄いです。

よく聞きませんか?アフリカとか気温は高いけど、湿気が日本ほどではないので、日陰に入ればけっこう涼しいって。

そうなのです。日本の湿気は異常です。加えて、気温もここ数年、異常に高温になり、湿気により体感温度はより上がり、しょうじき毎年、死にそーです😅

そんな日本の異常高温の夏を過ごしていると、、、

ここ最近、フィリピンでそれほど暑さに苦しまなくてよくなってきたのです。

あ。フィリピンといっても地域差はあると思いますので、とりあえず現地事務所があるセブ市に関していえば、確かに一年中暑いですし、朝から日差しが強いです。

しかし、だいたい30~35度って感じです。

もちろんそれでも暑いのですが、きっと日本の暑さを経験して、体がだんだんとそれに慣れてきて、フィリピンにいても、「日本の夏よりはマシだな」って思うようになりました。

慣れって怖い、、いや、すごいですね!😁

※※ ※※ ※※ ※※

ところで、初めの話に戻します。

「tengs koya john waer aryo」

このようなメールが、現地の子どもから届きました。

「john」は自分のニックネームです。まあ、正確に書くなら固有名詞なので「John」ですよね。

「koya」は、現地語の「kuya」(クヤ)の間違いです。意味は、「お兄ちゃん」みたいな感じで、いわゆる、年上の男性につける敬称です。

で、あとは、ふつうに英語です。

さてなんでしょう?😁

正解は、

「Thanks kuya John, where are you ?」

です🤣

「ありがとう、ジョンにーちゃん。どこにいるの?」

です😅

先日、自分のNGOが、支援活動として現地のスラムに食糧の配給をしたのですが、そのお礼のメールをくれたのです。でも、自分をその場に見かけなかったので、今どこにいるの?と。

現地とずっと関わっているうちに、いつのまにか慣れてきて、こんな不思議な英語の通訳もできるようになりました😂

フィリピンは公用語がフィリピノ語(ほぼタガログ語)と英語です。また、セブ市では日常生活にはセブアノ語が使われてますので、学校でタガログ語や英語を習います。

ただ、同じように学校で習うといっても、英語も公用語のフィリピンでは、日常生活の中に、英語がふつうに溶け込んでいますし、また、学校の授業も、日本のように文法とかっていうよりも、実践的な会話が中心です。

なので、日常生活における英語レベルは、日本よりもあきらかに高いのですが、基礎から習っていないこともあるのか、なかなか「クセが強い」英語を使います。

そして、英語で話す時も、自然に英語と現地語を混ぜて話します。

自分からしたらどっちも外国語なので、それほど違和感はないのですが、よく考えてみたら、日本語と英語を混ぜて話したら、けっこう不思議な感じになっちゃうようなことなんですよね😅

まあ、そんな感じで、特に子どもの英語はなかなか解読が難しいです。

話す方はまだしも、書かせるとめちゃくちゃです。

でも、ずっと一緒に過ごしてるうちに、そんなのにも慣れました😊

むしろ、こっち(自分)の英語もいまいちで、おたがいが不思議な英語慣れしてるので、実は会話が成立しやすいのでは、と思ってます。

日本もフィリピンも、やはり後天的にに「習った」英語だからでしょうか。自分にはわかりやすいです。というか、しょうじきネイティブの英語って自分にはむしろ聞き取り辛いのです🤣


でも、現地ではさっきも書いたように、文法や筆記ではなく、会話が中心に学んでいるので、発音はやっぱりちゃんとしてて(英語がうまい人に聞くと、なまりみたいなものはだいぶあるようですが)、「r」の発音とか、子どもにもよく直されます。巻き舌みたいなやつ?😅

実は自分も、学校では英語が嫌いでぜんぜん真面目に勉強しなかったので、今、それなりにコミュニケーションがとれるようになった英会話は、学校での勉強ではなく、旅をしながら、自然と身に着けたものだったりします。

よく英検が何級とかTOEFLが何点とかって言いますが、自分は受けたこともないです。というか興味もなかったです。

でも、今、こんなふうな環境で生活するようになって、英語でのやり取りが当り前で、それでめっちゃ苦労してて、、、あの頃、もちょっとまじめに英語やっとけばよかったなーって、いつも後悔してます😂

ただ、今、なんとかつたない英語でも、コミュニケーションがとれているのは、やっぱり外を放浪しながら、周りに誰も日本語を話す人がいない環境にずっといたから故の、慣れみたいなものなのだと思います。

実はよくわかってなくても、なんか語感や雰囲気で、言葉が通じてるテイで話し続けちゃうのも!🤣

あとで酷い目にあったりもしますが、、😱

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ” 

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「ところ変われば、、、」 ~前ならえ、ボレロ、その他いろいろ、、日本とフィリピン、それぞれ文化は違うけど、どっちが良いとか悪いじゃなくて、それがきっとその場所に合った形ってことなだけなんだと思う🙂 (#新型コロナウィルス #マスクとフェイスシールドの義務 #SDGs #国際協力の現場でのひとコマ)

f:id:yumekake-john-ngohope:20200820203142j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200820203206j:plain

写真は日曜日に行った、NGOの支援地域であるフィリピン・セブ島の、いつもの山岳スラムでの、子どもたちへの炊き出しの時のものです。

フィリピンもやっと新型コロナウィルスによるロックダウンからの出口戦略を(感染が落ち着いたというよりも、経済が限界なので、もう仕方なく無理やりにですが)模索し始めていますが、政府の発表によると7月の失業率が45.5%ともなり、既に壊滅的な経済状態は、もちろんすぐには元通りになるわけがありません。(というか、まだロックダウンが解除されたわけでもないですし。)

というわけで、スラムの貧困層の飢餓状態は改善することもなく、NGOでは継続的にスラムの貧困層への食糧支援や炊き出しを行っています。

と、そういう支援活動の様子を、今日は紹介するのではなく、炊き出しに集まった子どもたちを見てて、ふと感じたことをひとつふたつ。

フィリピンでは今、出かける時はマスクだけじゃなくフェイスシールドも必須になってる地域(ここセブ市もそうです)もあるのですが、山奥のスラムでは、ロックダウンが緩くなっていくと共に、いつのまにかマスクもあまりしなくなって、ついこのあいだまでは炊き出しの列ももっとソーシャルディスタンスだったのですが、だいぶてきとうになっていたりします😅

でも、よく考えてみたら、山奥のこの村自体が、今もずっと自主的にロックダウン(ゲートが設けられ封鎖されている)されていて、安全と言えば安全なのですが、、、(逆に、もしクラスターが起きたら、大変なことになります。)

で、

炊き出しのために子どもたちが列を作ります。

日本と同じように、「前ならえ」のようなやつがこっちにもあるのですが、どこかちょい違います。

フィリピンのやつは、前にならった手で前の子の肩をつかむのです。

電車ごっこみたく😳

もともとスキンシップ大好きな国なので、こういうのも自然です。

まあ、そのスキンシップの習慣が、今回のコロナの感染拡大にも、ひとつの原因になったような気はしますが、、、

と。

こんな列の作り方ひとつとっても、文化の違いってあるんだなあって思いました🙂

そして、もうひとつの写真。

この子の切なげな表情は、例えば「かわいそうな子どもたちに愛の手を」みたいなことに使えそうな写真ですが、実際は、日差しがまぶしかったのと、ちょいテレてるだけです😅

あ。そうです。よくあるそういう「かわいそうな子ども」の写真って、実はたまたま(けっこう他の理由で)そういう表情が写真に写っただけだったりするのです。
実際にそのような場所へ、現地へ行ってみればわかるのですが、たとえ困難な状況の中でも、やっぱり子どもたちは無邪気で明るかったりします。
何らかの意図を持ったパブリシティやプロパガンダって怖いなってよく思います。

それはさておき、まあやっぱり事実として、貧困地域の子どもたちは、ふだんはほとんど裸のような恰好で過ごしてます。

この日は、NGOのイベントですし、撮影もされるので、子どもたちはわざわざNGOから寄付された服を着てくれています。

で、この子なのですが、、、

きっといつものように、上に何も着ないで出掛けようとしたのでしょう。

暑いし🙄

それでたぶんお母さんが、「ほらあ!そんな裸でいないで(女子だし!😂)、今日はこれ着てきなさい!」と、これを渡したのだと思うのですが、、、

これって、いちおう大人の女性用のボレロ(でいいのかな?名前😅)で、、、

でもたぶんこの家の人的には、「何これ?短くてわけわからん」服だったとみえて、短いんでとりあえず子ども用!となったと思うのです。

「暑い時にちょっと着るって感じの服かしら?日本って不思議ね🙄」

と。

いや、もちろんフィリピンにもボレロやカーディガンはあるのですが、そんなよくわからない羽織り物は、ここの生活の中では無縁だったのでしょう。

というわけで、この子が、今日は着てみました。

裸じゃないぞ!涼しくていいぞ!😁

本来は、少なくとも、上半身裸で羽織るものではないと思うですが😅、、、

まあ、べつにいいです😊

こうやって、日本から寄付された服が、ちゃんと役立っているのです。

そこの生活に合った形で、、、🙂




あ。でも、いちおう「こういう使い方もあるよ」って教えてあげたほうがいいのかな😅

その上で、有意義な方を選んでもらえばいいよね!

「これって、スーパーとかで冷房が寒い時に、ちょっと羽織るのに良くない?」て感じで、しらじらしく言ってみよっか、、、😅😅😅

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。
そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。 今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ”  

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「内戦の傷跡 ~今そこにある現実から目を背けてはならない」 ...イスラム過激派との内戦により戒厳令下にあるフィリピン・ミンダナオ島・マラウィにて、、 (#国際協力NGO HOPEハロハロオアシス #SDGs #難民キャンプ #緊急支援 #海外ボランティア)

youtu.be

f:id:yumekake-john-ngohope:20200818164755j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818164825j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818164728j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818165221j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818165307j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818165152j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818165335j:plain
f:id:yumekake-john-ngohope:20200818164855j:plain

そこには何もなかった。
いや、確かにあった。
人々が生きていた証が。
瓦礫と化した街が。
ただそれだけがあった。
「Ground Zero」
そこはそう呼ばれている。

フィリピン・ミンダナオ島、マラウィ。
そこでは、イスラム過激派と政府軍が内戦を繰り広げ、
現在はとりあえず落ち着いてはいるが、未だに戒厳令下に置かれている。
この動画は、昨年の12月に、内戦の激戦地の跡を訪れた時のものだ。

戒厳令下にあるといっても、マラウイの市街地では、だんたんと人々の生活はもとに戻りつつあり、多くのムスリムが暮らすこの地域では、ヒジャブをまとい通りを歩く女性の姿が多く見られるようになった。
しかし、市街地を抜け、川を渡った向こうは、内戦が激しく行われた地域で、地雷の不発弾の危険性もあり、一般人は、未だそこへの橋を渡ることは許されていなかった。
いや、ジャーナリストやNGOでさえ、行政の許可と、軍の護衛が必要で、それでも、行けるのはその橋の手前までだと、聞いていた。
ただ、橋の手前の地域でさえ、戦闘により多くの家屋は破壊され、また、残った建物にも生々しく多数の銃痕が刻まれていた。
その川の向こう、内戦の激戦地は、グラウンドゼロと呼ばれていた。

自分らのNGOでは、マラウイの内戦からの避難民の支援活動をしている。
主にマラウイの隣のイリガンにおいて難民キャンプで支援を行っている。

とはいえ、避難所のあるこのイリガンでさえ、外務省の定める危険度レベル3、渡航中止勧告地域である。

そして、一度、やはりマラウイの現状を見ておきたいと思い、避難所のテントで暮らす、難民キャンプのリーダー的存在のおばちゃんに頼んで、連れて行ってもらった。
もちろん反対された。
そもそも軍の許可がいる。また、外国人は危険だ。
マラウイの市街地は軍が監視しているのでまだしも、途中の山道には、イスラム過激派の残党がゲリラ化して潜み、今現在も度々テロ行為を行っている。
外国人が行ったら誘拐される。
と。

もちろんそれはわかっていた。
だから、とりあえず行けるところまで行こうと。
危険だったらすぐに引き返すから、と。

そして、なんとか危険を請け負ってくれるドライバーを探して、NGOの現地スタッフ3人と、おばちゃんたち避難民4人と、自分で出掛けた。
イリガンの市街地を抜け、マラウイへと峠を越えていく。
たったひとりの外国人の自分は、とにかく車の中でちっさくなってろと何度も言われる。

そんなこんなで緊張感に包まれつつも、いくつかの軍の検問もあったが、とりあえず何事もなく、車は峠を越え、マラウィへと近付く。
故郷に近付いていくおばちゃんたちはなんか嬉しそうだ。
同時に、今は帰ることができない失われた故郷を哀しみもしながら。

そしてマラウィに到着。
軍の検問を受け、町なかへ。
町は、キリスト教国であるフィリピンの他の地域とは異なり、イスラム教の人が多く暮らし、アラビア語の看板があり、ムスリム一色な感じだ。
一見平和そうに見える。

が、、、
しばらく走ると、
銃弾だらけの建造物が現われてくる。
川の向こうに見える地域は壊滅状態だ。
そう、この川の向こうが戦闘の中心地域、
通称 Ground Zero だ。

「見てごらん、、あれがグラウンドゼロよ。もうぜんぶ破壊されて、何もないわ。」
と、おばちゃんがつぶやく。
「ここが、わたしの、ふるさとよ」

そのまま車を進めると、その川にかかる橋に辿り着く。
「この辺までだね」
と、ドライバーやおばちゃんたちが顔を見合わせる。
いちおう橋の手前の検問所で聞いてみる。
「彼は日本人なんだけど、NGOの活動で来てるのよ」
そう告げる。

そしたら、、、
検問の軍人がしばらく考えてから、、、

「Go」

と言う。

え?
自分もそうだけど、
それ以上に、現地人が驚いてる。
おばちゃんたちも興奮してる。
「ここへ入るの、私も初めてよ!」
「ここがグラウンドゼロよ!」
と、車の中はちょっとした騒ぎに。

とはいえ、
やはり自由にしていいわけではなく、
車から降りることはできないし、
写真撮影も、注意されたりした。

そして、、、

そこには、
何もなかった。
いや、確かにあった。
人々が生きていた証が。
瓦礫と化した街が。
ただそれだけがあった。
「Ground Zero」
そこはそう呼ばれている。
もちろん人は誰も住んでいない。
というか歩いてる者は誰もいない。
そこに存在するのは戦争で破壊された町と、
ときおりある検問所の軍人だけだ。

この光景に、みんなショックを受けている。
もちろん自分もだ。
これが「戦争」だ。
現実にある光景とは思えない、
だけど、これがまぎれもない現実なのだ。

そしてグラウンドゼロを後にする。
しばらくは道の両側に破壊された町並みが続く。
だんだんと人々が現われ、
生活が感じられるようになってくる。
ヒジャブを被ったムスリムの人々が通りを行き交う。

自分は日本人だ。
宗教観もよくわからない、ふつうのろくでもない甘えた環境の日本で生きてるやつだ。
車にはムスリムのおばちゃんたちとカトリックの現地スタッフ。
それでも、そこには信頼関係があり、時に冗談も交わしながら、助け合いながら、そして今、危険な地域へと共に足を踏み入れた。
この内戦は、世界的なテロリズムの流れやISの影響はあるが、もともとはキリスト教イスラム教の宗教対立だ。
その現状に対して、自分はあまりにも無力だ。
でも、こうしてまた、ひとつの厳しい現実を目の当たりにし、体感し、感じ、考え、思いをわかちあい、何かを次へつなげていくことはできるはずだ。
またひとつ、たとえそれは小さくても、確かな一歩を踏み出せた。

グラウンドゼロ、、
しょうじき、どうしてその内側に入れたのか、未だによくわからない。
NGOという肩書も影響があったのもしれないが、
今まで、現地の人々も、各国の民間NGOも、ジャーナリストも、危険が大きくグラウンドゼロに入ることは、容易ではなかった。
こうして戦地に足を踏み入れ、視察できたことは、貴重な経験だったのだろう。
事実、自分が連れてきた現地スタッフは、皆、この、目の当たりにした厳しい現実に打ちひしがれ、深く考えこみ、ものすごいものを見てしまった、という感じだった。

でも、自分は少し違う。
こうして戦地に足を踏み入れた。
貴重な経験をした。
それだけでも今は凄いことなのだろう。
必要なことなのだろう。

でも、ここからだ。
また、あらためて、
ここから、なんだ。
目の前に広がる廃墟から、
その現実から、
そこに宿る人々の思いから、
次の一歩をまた、試行錯誤していかなければならない。

しょうじき、この町の復興には、まだ途方もない年月がかかるだろう。
避難所の人々が故郷に帰れる日がいつ来るのかまったく想像もつかない。
でも、きっとその日まで、一緒に協力し、支援を続けながら、
いつか一緒に、笑顔でまたこの地を訪れたい。
この足で、この地をしっかりと踏みしめたい。
冗談を交わしながら、おちゃらけて歩きたい。
子どもたちと一緒に走り回りたい。
そんな日がくるまで、まだまだ、
うん、
まだ、これから、
ここから、だ。

なぜかはよくわからないが、きっと何らかのタイミングがあって、手続きもせずにいきなり行ったのにグラウンドゼロに入れた自分らは、きっとラッキーだったのだろう。
だが、
今回のことで、
あらためて実感したことがある。
「勇気を持って動かなきゃ、幸運はつかめない」
ということだ。
いや、待っていてもやってくる幸運に越したことはないけど、
あきらめないで行動することによって、訪れるラッキーもある。

現実を受け入れることと、諦めることは、似ているようでちょい違う。
そんな気がする。

そう、この「ラッキー」は、自分たちが、トライすることによって作ったものなんだ。
それは、今まで、危険の中、この地で支援活動を続けてきて、築いてきた現地の人々との信頼関係が生んだもの、、、それはラッキーではあるが、皆で積み重ね、作り上げた結果でもある。
そう思った。

翌日、周辺の避難所やキャンプでチャリティーイベントを行った。
子どもたちが待っていた。
みんなで楽しくゲームをしたり、プレゼントや支援物資を配ったりした。
不自由で困難な生活のなかでも、
いつものように、そこには笑顔があふれていた。

いつか、
あの故郷に、
みんな一緒に、笑顔で帰れる日が来るといいね。

いつか、きっと、、、

 

 

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ” 

hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com

「ロックダウンからの脱出(Ⅴ)」 ~フィリピン・セブ島ー差別、監視、軟禁、、3・21、あの日、新型コロナウィルスにより突如封鎖された島を、ボクらは脱出した、、 (#アジア系差別 #海外ボランティア #ロックダウンによる臨時便フライトでの帰国)

f:id:yumekake-john-ngohope:20200816184837j:plain

そして宿を、空港近くのゲストハウスに移動した。

これでいつでも帰国へと動ける。

やはりこの時期、日本人に対する特別な視線を感じたが、ゲストハウスの人たちは快く受け入れてくれた。
本当に有難く思った。

いつ帰れるのかはまだわからないが、まずは1泊1泊だ。
もうこうなったら、できれば明日帰りたい。

というわけで、学生ボランティアのメンバーを、町なかのショッピングモールに降ろし(急きょ帰国することにしたので、それはそれでお土産等も買ったり、また忙しそーだ)、自分は、空港へ。

この際も送り迎えしてくれたり、交渉に付き合ってくれたり、ゲストハウスのスタッフは、本当によくしてくれた。

窓口の順番を待つ列に並び、やっと手に入れた情報は、

「明日も臨時便が飛ぶ予定ですが、今、予約はできません。明日の朝、また来て下さい。そして、またご案内します。」

だった。

詳しく尋ねると、ようするに、日本への臨時チャーター便はある予定だが、席がどれだけ空くか当日にならないとわからないと。

まあ、お金もコネもあるんだろうし、組織レベルの手配や企業等の団体利用が優先で、ただの個人の客は、その空いた席に、どれくらい乗れるのか当日までわからない、というわけだ。

世の中そんなものだ。

で、翌日。

今度は、メンバー全員、帰国する準備も万端で、早朝、空港に来る。

言われた時間よりも早く来たし、昨日いたほとんどの人たちは、あまり状況がわかってなかったようだったし(「明日また来て下さい」というアナウンスで突然、受付が閉じられたので、その後、食い下がった自分らのように、時間や事情等の詳しい情報をあまり知らない。)、というわけで、自分の前には10人もいなかった。

というか、前の方の人たちは、昨日からそこへ泊まっていたようだ。

そういう感じだったので、まあなんとかなるんじゃ、という気でいた。

しかし。

受付は午前中を待たず終わる。

自分らの後ろにはもう既に長蛇の列ができているというのに。

なんなんだこのやり方。

ほんの数人の手続きをし、そしてようするに昨日と同じく「また明日」だ。

自分らが乗れなかったのは、13人の団体という人数の多さもあったのだろう。

といっても、あれだけ先頭近くでダメだったということで、その日の空席は20もなかったということだ。

あの列にいる大量の人々はいったいどうなるのだろう。

もちろん自分らも含めて、、、

とりあえず。

途方に暮れた。

こんな状態のフィリピン航空に頼るのではなく、外国の航空会社(乗り継ぎ)なら、まだ大丈夫なものがあるんじゃないか。

フィリピンはもうわけのわからないロックダウンとかしてるけど、日本や他の国はまだ制限もしてないし、とにかくまずはフィリピンを出てしまえば、なんとかなるんじゃないか、と、しばらくそのまま空港のベンチで、打開策を探した。

ちなみにこの空港は、日本と違い、チケットがないと建物内に入ることができず、列も、手続き待ちも、みんな外だ。熱帯のフィリピンの暑さの下の。

もちろんこの時の自分らも外であーだこーだやっていた。

韓国経由やシンガポール経由、、いけそうな気もしたけど、こんな時期なので、いつ状況が変わって、その国から出られなくなるかわからない。

例えばシンガポールで乗り継ぎしようとしたら、そこで2週間の隔離で足止め、なんてことになるかもしれない。

事実、この時、候補に挙がっていたシンガポール経由は、確かにこの時点では、「数か国(フィリピン含む)からの入国規制はあるが、乗り継ぎによるトランジットは入国規制なし」だったのだが、翌日から、「乗り継ぎにおいても2週間の隔離措置」と変更されたりしていた。

そんなふうに、新型コロナウィルスによって日々激変していく世界の状況に振り回され、どうにか抜け道を探そうとしていた。

しかし、時間だけが過ぎていく。

いつのまにか、列に並んでいた大勢の人々も、諦めていなくなった。

ふう、、( ´Д`)=3 

。。。

と、ほんとどうしようもなく途方に暮れてると、

フィリピン航空のスタッフが歩いてきた。

さっき窓口の奥で、13人分の空席を探してくれたスタッフだ。

彼女が、自分に話しかけた。

「特別なんだけど、もしOKなら、明日のチケットを用意するわよ」

と。

。。。

時々こういうことがある。

なんというか、自分は、金髪のロン毛で体もおっきくて、まあようするに外見のインパクトが強い。
ただそういう外見は、たいてい第一印象の悪さに繋がるのだが、たま~に、得することがある。
向こうが覚えてくれる、ということだ。

そんな外見や(?)、また、連日毎日長時間居座ってたこと、まあようするに、毎日毎日空港にずっといる怪しい日本人😅、、、を、さすがにスタッフも覚えたのだろう。みんなが消えた後も、外のベンチで途方に暮れている自分らに話しかけてくれたのだ。

願ってもないオファーをくれた。

やっと空港の建物内に入ることができ、詳しい話を聞く。

自分とあと数人を連れて、人気(ひとけ)のない空港カウンターに行き、彼女がPCで調べ始めると、周りのスタッフが「?」という反応をする。

彼女が説明する。

そう、これって、彼女の一存の裁量で、助け船を出してくれたのだ。

本当に有難い。
自分自身ががんばったとしても、やはりたくさんの人に助けられ、支えられてる。
今回の旅でも、何度もそう実感した。

臨時のチャーター便なので、値段は高い。日本円で訳123000円。
ちなみにもともとの「往復」チケットは68000円前後。
帰りだけの片道が、往復の倍だ。
だが仕方ない。
それこそ「背に腹は代えられない」ということわざがぴったりだ。
それにこれは、格安チケットでもないし、おまけに日本までの片道で、帰りは客を乗せるわけではないし。
あと、それ以前に、コロナが発生して中国の武漢が封鎖された時の、日本へのチャーター便もやっぱり12万円くらいだって聞いていたので、妥当といえば妥当なのかもしれない、、、と、納得するしかない!!!

と、なんとか帰国できることになった。

で、次の問題はというと、

今夜の宿がない!😱

昨日のゲストハウスに聞いてみたら、今日は他の客(足止めされて帰れなかった観光客とかだろう)の予約が入って、全員は無理だと。

仕方ない。

でももうこのまま空港にいるのも疲れちゃうんで(外だし暑いし)、とりあえず移動する。お昼を食べにいくって感じで。

全員とスーツケースが載せられる分の車を手配する。お金はかかるが、もう仕方ない(ほんとにいろいろ仕方ない!)。なにゃかやのトラブル対応で予算をオーバーしても、自分のサイフでいける分はいっとこう。

あまりちょこちょこ動けないし、いちおう確実な場所ってことで、昨日のショッピングモールへ。

そこでご飯を食べて、一端、自分は皆と別れる。

PCを現地のロード(プリベイトのインターネットデータ)で使っていたのだが、それがもう切れてしまい、また、充電も切れそうで、とりあえずロードを買って、コンセントのある場所(モールの中のトイレとか?)に行こうと。

なんだけど、やっぱりロックダウンの影響からか、閉まっているお店も多く、ロードが買えない。

うーん、、、

考えた末、モールから出て、フリーWi-Fiのある飲食店を探す。

茶店があり、うまいことにコンセントも見つけた。

で、アイスコーヒーを飲みながら、宿を探す。

もう寝るだけだし、安いとこで、という感じの、まあほんとそういうゲストハウスを予約。

通りは、数日前までいたバランガイとぜんぜん雰囲気が違う。

ここでは差別も監視もなく、日本人だけで屋台で晩ご飯を買いにいったりも普通にできる。

ただそれだけのことが、ものすごいことに感じられる。

9時までの外出制限はあるけど、


これが「自由」だ。

その時点での、フィリピン、またセブの状況はというと、まだいろいろ混乱状態で、制限についても、結局、バランガイ(町村)単位で判断するみたいな感じになっちゃってて、バランガイ間の移動も、許可が必要だとか言われてたり、とにかく情報が錯そうしてた。

実際はそのほとんどがパニックからの大げさな情報で、その時点(3月中旬)では、まだ意外といろいろスムーズだったんだけど。

また、セブ市はそんな感じでも、今いるラプラプ市は、また雰囲気が違って、自分らに対する緊張感もあまりなかった。
空港近くの場所っていうことで、外国人に慣れていたこともあるのだろう。

翌朝。

宿のスタッフのにーちゃんに車の手配をお願いする。
高級ホテルじゃないんで、タクシーもふつうに呼ぶ。
Grab(登録タクシー)を手配するが、これがまたぜんぜん来ない。

ああ、フィリピン人 😰

飛行機の時間、ヤバイんだけどー、、、

、、、

なんとか空港に到着。

時間、マジでヤバイ😨

そしてチェックインカウンターへ。

もうフライトまで時間があんましないけど、ここまで来ちゃえばなんとかなるだろう。

と、

思ったのだが。

最後までハプニングは続く、、、

《「ロックダウンからの脱出(Ⅴ)了。続く。》

🌈ロックダウンからの脱出 Part Ⅰ~Ⅵ &「その後」

yumekake.com

yumekake.com** ** ** **

JOHNです。よろしくお願いします。
海外のことや日本のこと、世界の現実、経済や政治、ポエムまで、いろいろ書いてます😅
もしよろしかったら、読者登録、スター、 シェアお願いします🙂

自分は、国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」の代表を務めています。(詳しくは下記「自己紹介・NGO連絡先」リンクをご参照お願い致します。)
あ。「YUMEKAKE」というのは、NGOの活動のプロジェクト名(YUMEKAKE PROJECT)です。世界の子どもたちの、笑顔と希望と夢の架け橋になりたい、という意味です。

このブログでは、国際協力活動を通しての視点で、海外また国内の、様々な問題や出来事、スラムや難民キャンプの人々の生活、NGOの活動の様子等を、時に真面目に、深く、時にゆるく、書いていきたいと思います。 そして少しでも、皆さまに、世界の様々な現実を知ってもらえるきっかけを届けたいと思っています。

今後ともよろしくお願い致します。

NGOの活動にご関心のある方は、お気軽にお問い合わせください。

【 国際協力NGO「HOPE~ハロハロオアシス」】

” ただ与えるのではなく、共にわかちあう支援を ”  hopehalohalooasis.wixsite.com

yumekake.com